第1話 初めての海外生活
58歳の英語の話せないオバサンの3年間(2011年3月~2014年3月)のドバイ生活の記録です。
英語が話せなくても外国人の友人がたくさんできたことで何倍も楽しくなった自分の経験を伝え、少しでもお役に立てることを願いブログをはじめました。
国際コミュニケーション キーワードは
・度胸
・好奇心
・サービス精神
以上三つの精神で誰でも外国人と友達になれます。
第2話 言葉より気持ち
2011年 3月11日
忘れもしない東日本大震災のその日ドバイへ到着。
仮住まいのホテルの大型テレビではCNN,BBCニュースで津波の押し寄せる様子が映っていました。夫と「どこの国?」と見ていると「JAPAN、JAPAN!」と。
今でもテレビの声、ホテルの様子鮮明に覚えています。
その日から、ホテルのスタッフはじめ、外で出会う外国人に私たちが日本人だとわかると、お見舞いの言葉をかけられました。もちろん英語です。
「あなたの日本の家族は大丈夫ですか」と多くの外国人のお見舞いの言葉に、そのうち「出身地は日本の南ですから大丈夫です。」と英語で説明ができるようになりました。
言葉は通じなくても気持ちが通じ合うことを実感させられた外国生活のスタートでした。
*58歳の英語の話せないオバサンの3年間(2011年3月~2014年3月)のドバイ生活の記録です。
*国際コミュニケーション キーワードは ・度胸 ・好奇心 ・サービス精神
第3話 基本はあいさつ
いよいよ仮住まいのホテルを出てこれから3年間生活する
レジデンスへ。
夫が出勤した後、まず私はお隣へ引っ越しの挨拶に行きました。
緊張しながらドアベルを押す。
(ドアスコープに映る私はたぶん出稼ぎのベビーシッターかメイドに思われたに違いない。)
後でわかったことだが、その家はメイドを雇うこともなくベビーもいなかった。
部屋から出てきた長身のマダムはニコっと首をかしげ「何かご用?」と聞いた。
私はメモを片手に握りしめ挨拶。
「マイネイムイズ・・隣に越してきました」
こちこちに震えながらメモを棒読みするだけのたどたどしい英語です。
すると、マダムはすぐに中へ通してくださり、部屋中案内、お茶をサービス
1時間ほどいました。(何語でしゃべっていたンだろう)今、振り返っても驚きです。
ご主人はイギリス人、彼女はオーストラリア人でお名前はリンさん。
年齢は私よりすこし上で子供は5人。仕事はご主人は世界中で活躍する設計士
彼女は在宅勤務で大学にレポートをかいているとか・・。
翌日にはさっそく生活に必要なスーパー、美容院、ポストのある場所を案内してくれました。
*58歳の英語の話せないオバサンの3年間(2011年3月~2014年3月)のドバイ生活の記録です。
*国際コミュニケーション キーワードは ・度胸 ・好奇心 ・サービス精神
第4話 私流外交術
初めての買い物で敷地内にあるスーパーマーケット カルフール(フランス系)へ行きました。
野菜コーナーでピーマンを買う際、秤にのせます。
売り場の若い男性に聞かれました。「あなたは中国人?」私が日本人と答えると
彼は親指を立て「Japan good👍」と笑顔の対応。
そこで私は彼に聞きました。「あなたはどこの出身?」彼は「ミャンマー」と。
私は「ミャンマーいいですね。アウンサンスーチーさんの国ですね」とミャンマーに触れました。
すると彼は満面の笑みで次々とお国自慢をしました。・・・英語で。
秤の上のピーマンも笑顔の振動で揺れ動いていました。
このご縁で彼とはいいお付き合いが帰国まで続きました。
夏のスイカの時季には、スイカは見た目同じで食べてみないことには甘いのかわからないもの。その場で切って味見をさせてくれました。
もちろんチップの不要なドバイですが、私もそれなりに渡しました。
帰国の際には引っ越しの手伝いまで申し出てくれ、いちばんうれしい言葉は「国のお母さんみたいだ」といわれたことが今でも忘れられません。
人種の坩堝ドバイは人口の8割が外国人。周辺諸国インド、パキスタン、ネパール、バングラディッシュ等から出稼ぎで来ます。
私は外国人に「日本人?」と聞かれたら必ず相手の出身地を聞く私流外交で3年間
過ごしてきました。それが居心地のいい初めての海外生活のスタートになったのではないかと思っています。
結果として他の日本人に比べ、日本人より外国人とのお付き合いを楽しんでいました。
家にはお隣のリンさんはじめフィリピン人、エジプト人からフランス人までと
他国籍の日本語の話せないお客様が来て賑わっていました。
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*国際コミュニケーション キーワードは ・度胸 ・好奇心 ・サービス精神
第5話 相手の名前を覚えることも外交術
私はもともと人の名前を覚えるのが得意なようです。
それは外国人にも言えることでした。
レジデンスに着いたその日、敷地内を散歩しているとテニスコートがありました。
そこで練習を終えたコーチにさっそく声掛けました。
「私は日本人です。英語もテニスもできませんが教えていただけますか」すると
インド人の彼は黒い顔に白い歯を見せてすぐに「OK」!(^^)!
「やってみるか?」私「ハイ!」
ところが、サンダルでしたので裸足でやることに。
そこですぐに翌日からレッスン開始。
帰宅した夫は私のこの行動に驚きを超えて笑って・・・あきれたようすでした。
(レッスン料金はかなり高額だったかと。でも私の考えはこうでした。
せっかくの海外、帰国した年に受給開始の年金を前倒し活用。それを自己投資、脳みそを活性化、老後に生かすことに決めたのです。)
で、コーチの名前はシーバー・・・私はウィスキーのシーバースと覚えました。
同じコートにアメリカ人の女性がレッスンに来ました。
彼女の名前はベッキー。私はすぐに覚え次にお会いした時「ベッキー」と声掛けしました。
すると彼女は「ごめん。あなたは私の名前を覚えてくれたけど、私は忘れたワ」と言いました。
その返事私は「ベッキーは日本の人気芸能人の名前で、それで覚えたのよ」と
それからコーチとベッキーととても仲良く帰国の際には送別会もしていただきました。
後で記事にしますが、ベッキーは国立ザイード大学の英語の先生でした。
私が地元の子供に日本語を教えたいとボランティアの話をすると、すぐに大学に案内してくれました。
ついでに、レジデンスの入り口にいるガードマンはネパール出身のラージさん。
彼は小柄でした。私は小柄なのに名前はラージとすぐに覚えました。
よくエレベーターで挨拶するイギリス人のビルさん。彼も小柄でした。小柄なのにビル・・とか次々に名前を覚える私に夫はびっくりしていましたが。
名前を覚えたことで友達の輪ができました。
名前の話で英語の話せないことを痛感したことも。
テニスコートでイギリス人の女性に名前を聞かれた際、「日本人の女性の名前は〇〇子と最後に子がついていることが多いです。例えば美智子皇后、雅子さま
紀子さまと皇室の例を挙げると、相手に「MIEKOあなたもプリンセス?」と聞かれ「きゃあ~~~ぜんぜん違う。庶民をなんていうンだろう・・・」とパニックになったことがありました。
でもなんとか私がただの人と理解してもらい大笑いで終わりましたが。
英語が話せないことで間違った日本を紹介したら大変!!気を付けなくては。そう思いました。
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第6話 驚異の行動力
私がドバイで一番パワーを感じた人の話です。
いつも利用していたアブダビ資本のインド系スーパーマーケット
LuLu Hyper market は食品、日用品、家電など生活必需品が充実、価格がとても
リーズナブル。
トルコ産の乾燥イチジクやドバイ定番土産デーツなど所狭しといっぱいありました。おススメのスーパーです。
惣菜コーナーのバターチキンカレーはとてもおいしく、慣れたころにはタッパーや鍋持参で買っていました。
今回のタイトルはそのスーパーでのできごとです。
トイレを出ると掃除をする人が必ずいるのですが、彼女が自分の手を痛そうな顔で見ていました。
私がどうしたのか聞くと、先の客が誤ってドアを閉めたため、そこに挟まれてしまったようでした。
少しのチップを渡すと、彼女は礼を言い、それを薬代にすると。
そのあと私が日本人と挨拶するとすかさず「Take me to Japan」と。
彼女はバングラディッシュから単身ドバイに出稼ぎで来たという。
それだけでも驚きなのに・・・バングラディッシュ・・ドバイ・・日本へ。
年齢はたぶん私と同じくらいかと。
彼女のあの時の目ヂカラ・・あのパワーを思うと英語が話せなくてもなんとかなる・・世界中どこでも生きていけるような不思議な力が湧いてきた私だった。
語学力の前に行動力!
他にも同じ年ごろで、家族をフィリピンに残して30年も出稼ぎで頑張っている友人も後にできたが、やはりバングラディッシュの彼女のパワーはダントツだった。
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第7話 英会話スクール入学
ドバイに来て一か月。お隣のイギリス人の奥様でオーストラリア人のリンさんに英会話スクールを紹介していただきました。
「英国の公的な国際文化交流機関、ブリティッシュ・カウンシル」です。
怖いもの知らずという表現がピッタリかと思うが、それも好奇心、度胸からくるものだと思います。
いよいよ入学テスト。結果は想定通り最低クラス。
生徒は10名ほど。さすが人種の坩堝ドバイで生徒の国籍は地元をはじめリビア、ベトナム、アフリカ、ウズベキスタン等々、日本人はクラスだけでなく学校にその時は私ひとりでした。
月謝も高く富裕層の雰囲気がいたるところプンプンでした。
(私は帰国後の年金の前倒しです)
まず、生徒の送迎車・・ベンツはベンツでも見たことのない大型車。バス、タクシーで来るのは私だけだったように思う。
学校へ入る時は空港で見る手荷物検査のようにチェックが厳重でこれにも驚きでした。
教室はきれいで、休憩室はカフェスタイル、サンドウィッチとかが売られ、無造作に置かれた青りんご、それをかじりながら新聞を読んだり、おしゃべりしている人を見ると、なんだか映画のワンシーンのようで、自分の「英語の話せないオバサン」という現実を忘れていました。
授業の内容等・・・つづく。
*58歳の英語の話せないオバサンの3年間(2011年3月~2014年3月)のドバイ生活の記録です。
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